車に半年分のお米を積むKちゃんの横で「なるほど~」と言いながらこんな写真を撮っていると
「柳子wまた~?何でそんなもの撮るの?wwwさあまだ早いよ、どこへ寄ってく?」とKちゃん。
「私の好きそうなところ」「はいよ、じゃああそこだ。ホラ乗って!」
柔らかな秋の陽ざしに体が、そして梢の葉を雨戸に映す木漏れ日に、心がぽかぽかと温まる。
Kちゃんの車は、阿弥陀堂から馬曲のお湯へ。
温泉の入口には水車小屋がある。
小屋の周りには流れが巡らせてあり、水車もちゃんと回っていた。
北信濃の山の上に湧く温泉からは、湯に入りながら夕日が見えるのだ。
もうじき、日が沈む。
ワーオ、貸し切りじゃん、最高。
彼方の山並みをぼーっと見ながら無言で湯につかる私。
最近グロッキーな顔をしていたのがバレてたかな。親の介護話はお互い様とは言え、さんざん聞かせちゃってるしなあ。
いつも、ありがとう。
今日も、ありがとう。
霜月に入らんとするとある日、三河にて鹿やら猪やらを獲りまた川魚を漁るなどして暮らす御人から来松する旨の便りが届く。
到着のその日知らせを受け我城へ馳せ参じる。
三河の御仁正装にて現るに観光客城の番人ら皆感心し声をかける。撮影じゃないよw
三河の御仁登城の知らせを受け本丸庭園は貸し切りである(ウソです)。
折から本丸庭園の紅葉美しく客人も窓からの眺めにご満悦であった。
そして霜月終わらんとする頃再び客人あり。都から釣り人連立って参る。
晴天のもと雪化粧をした国堺の山々が都人を出迎えた。
城内に人力車あり共に乗り込む。
一介の貧乏町人である我が暫し上級武士であるかのような錯覚に陥る晩秋のひと時であった。
薪はその昔、人の生活に無くてはならないものだった。
薪の原料になる木はもちろん、炊きつけにする落ち葉や枝や、牛馬の飼葉となる草も人は大切にした。
里の近くの山はいつも明るく、春になれば下草が刈られた所から丈の低い草たちが芽吹き、花を咲かせていたに違いない。
そして道ばたの草は奇麗に刈り取られ、そこからも野の花々が顔を出していたことだろう。
炊きつけの草を刈るにも、近場が良いに決まっている。
どこの道ばたにも夏草が生い茂り、これを税金を投じて草刈をしてゴミにする・・・という時代が来るなどと当時、誰も想像しなかったことだろう。
薪に話を戻して・・・さてその薪の原料にも事欠く現代、なのに薪流行りの時代でもある。
薪の原木はあるところにはあるのだが、手に入れるのが難しい。
それに石油に比べ安価かというとそうでもない。
かといって売る側も薪でそうそう商売になるわけでもない。
さて、写真のバスの名前は「もくちゃん」。大町市のエネルギー博物館がこのバスを所持している。
その名のとおり薪で走るバス(昔懐かしいボンネットバス)だったが、現在はガソリン車へと生まれ変わり、大町を走っている。
薪という燃料があったことを、そして実際にそのエネルギーで車を走らせていたことを知ってもらおう。
山里から人里へのリサイクルを現代人に考えてもらおう。
そして、乗せすぎると(笑)坂道では止まってしまうスローな交通手段を慌しい現代人に体験してもらおう・・・・
そんな思いでNPOや地元の皆さんに支えられ、実際に薪バスとして運行され、炉が傷み使えなくなった後もガソリン車として残った「もくちゃん」。
エネルギー博物館ではなんと、入館者先着12名は無料!でこのボンネットバスに乗せてくれる。
『龍神湖展望広場までの標高差130メートルを、ゆっくり』登る、昭和の香りが漂う懐かしいボンネットバス、もくちゃん。
乗車希望の場合は予約も可能なので、大町方面へ行かれる方は是非一度「もくちゃん」に会いに行ってみては?
🚌2023.12.23 記事をリライトしました。写真提供は二点とも、「北アルプスバイオマスを考える会」(2007年)より。
川べりには水車小屋。
草が茂る土手。
流れの中には魚の影が…と、こんな景色がここ日本で見られたのはいつごろまでだったろう。
黒澤明の映画「夢」の舞台になったここは、穂高のわさび農場の一角だ。
©TAKASHI MARUYAMA
大好きだった叔父が自費出版した絵本『水車小屋』には、彼のふるさと・新村にかつてあった水車が描かれている。
── 丸さんの絵日記 No5 「水車小屋」より
秋の 午後
よく澄んだ 青空の日が、つづきます。
近所に、大きな水車のある家が ありました。
長い年月、水を吸って 黒く重たくなった 水車が
ゆっくり ゆっくり やっとこさ まわっています。
石臼が、ときどき 音をたてて ふるえます。
「いたみがひどくて、今年いっぱいってとこかな」
そこのおじいさんは、言ってました。
水車にも、寿命があります。
木がもろくなって、修理が出来ません。
今は、稲刈りの 真っ最中です。
おばあさんは、家に残って オコヒル(お3時)の準備と、水車番です。 ──
©TAKASHI MARUYAMA
村内には共同の水車小屋もあり、水車は鋼鉄製で「小型で高速回転でパワーがあった」。それは戦争中に国に献納され、戦後村は水車を作れないまま小屋は朽ち、そして取り壊された…と、ある。
鉄製の水車はさぞかし村人に重宝されただろうが、水車と言ったら、風情があるのはやはり、木製だ。
そしてこんな木製の水車は観光地か蕎麦屋さんのディスプレイにしか見られなくなった。この水車もまた、映画のために作られたものだ。
©TAKASHI MARUYAMA
その映画「夢」の中で、笠智衆(りゅうちしゅう)さん扮する村の古老がこの水車の横に座り、穏やかに、訥々とこう語る。
『人間は 便利なものに弱い。
便利なものほど いいものだと思って 本当にいいものを捨ててしまう。
近頃の人間は 自分達も自然の一部だということを忘れている。
人間に一番大切なのは いい空気や自然な水 それをつくりだす木や草なのに。
汚された空気や水は 人間の心まで汚してしまう。』
小屋の横に植えられた西洋アジサイが花盛りだった。
川面に葉先を浮かべる水草には、ハグロトンボが羽を休めていた。
私と同じシングル・だが私と違って体力気力が充分な山屋の母友から
「ねえ柳子さん、子供連れでどこかハイキングに行かない?」
と誘われて「良いねぇ~じゃ、私ら、体鍛えとくねぇ(親子とも体力には自信なし)」と調子の良い返事をし続け、しかしハイキングの計画は流れ流れて早、数年。
山をやっていただけあって行動的な彼女に、ついこの間も美術館のワークショップに誘われ、止せば良いのにまた
「良いねぇ、面白そう、行きたいんだけど予定がわからないんだよねー」
という毎度の返事をしていたら、ワークショップの締め切り間際に彼女から
「柳子さんの態度はいつもあいまいでyesかnoかわからず、迷惑です。」とビシッとしたメールが来た。
………おっしゃるとおり。
深く反省した私は、そうだそうだ、動かなきゃ、後回しにしないで計画立てなきゃ、子供だってもう6年生でもしかしたら今年が親と一緒に出て歩いてくれる限界ギリギリかもしれないし…さて。
う~ん、どこにしよう。
やっぱり近いところがいいな、日帰りだし。
でもって、できるだけ混まないところが…。
…と言うわけで、取引先から連絡が来ない連休に一日空けて、しかしこれまた都合よく奈川の友人を頼り、ハイキングの行き先を相談。
「え~と、…友達は毎年秋の涸沢に登ってるし、ドコでも楽勝なんだけどさ。一日ほとんどパソコンの前に座りっぱなしの超運動不足の私が歩いて戻ってこられるところで、できれば峠道」
すると奈川の友人Sちゃんが言うには
「なら野麦峠かな。ガイドお願いしといたよ、ベテランだからね。時間は上でゆっくりお昼食べて遊んでも往復3時間だよ」OK、OK。そんならオーケー、ありがとうSちゃん(感涙)。
予定の日間で、お天気は不安定で冷え込む日が続き心配したが、当日は朝からすっきりと快晴。
いつもどおり寝不足な目をこすりながら前日に用意した弁当を詰めて、友人と共に奈川に向けて出発だ。
連休で朝から道は混むかと思いきや、なんと40分で待ち合わせ場所に到着。約束の9時までに、あと40分もあるじゃん、おお!?こんなに近かったっけ!?奈川。
そう、今はここも松本市だし近いことにそんなに感動する事もないが…でも奈川・乗鞍・上高地まで松本市ってのはなんだかねぇ。
おっと話が逸れるので戻して、
あ~久し振り、周りは山ばっかり、嬉しいな ♪
地元奈川のベテランガイド「奈川案内人の会」のTさんにご挨拶し、まずはオリエンテーションから。
早速子供たちはTさんの説明に聞き入る、よしよしマジメに聞いとるぞ…
たまに目がアッチコッチいってるのはオマエか、我がムスメよ?
と、突然Tさんが「今日はあなたたちにプレゼントしたいものがあります。」
Tさんが取り出したのは、獣の骨と牙かと一瞬思ってしまうほど、白く美しく磨かれた木のキーホルダーだ。
ゲンキンなことに突然Tさんの手元に集中する我がムスメ(笑)。
木で作った素朴なキーホルダーに子供たちは大喜びの様子、へぇ。
峠の登り口で、怪我の無いように固まった体をほぐす運動をTさんに教えていただく。
そして荷物のチェックもしていただき、さらに靴のフィッティングと靴ひもの結び方も教えていただき、至れり尽くせりで心強いったらない。
さあ、ではクマザサ対策に手袋をはめて、いざ、峠道へ。
ここ野麦峠はかつて、多くのうら若い娘たちが飛騨から信濃へと国境を越え、出稼ぎ先の製糸工場へと向かった道だ。
今では良い車道が通り、私たちの待ち合わせ場所から峠の頂上まで、車ならほんの十数分だ。
今どきの私たちは足もとはトレッキングシューズ、服装は長袖長ズボン、そしてリュックには色々なものが詰っているが、往時のいでたちはとても質素なものだったにちがいない。
最後尾の私の前を行く2人の娘に、わらじ履きで峠を越えて諏訪へ向かった娘たちの姿をだぶらせて見る。
なんだかんだ言っても今って、良い時代なんだよな。
登る途中、Tさんは木の見分け方、山野草や山菜の名前について話しつつ、私たちのペース(というか私か・笑)に合わせて時々休憩を入れてくださる。
ガイドさんと歩くのは初体験だが、大変良い。本当に最高。
また、子供というのは親よりも他人の話を良く聞くものらしい。不思議だ…え、ウチだけ?
・・・まあいいか。
それにしてもクマザサの茂りようは素晴らしい。明るいカラマツ林の林床を、我が物顔で支配している。
ハイキングの前日まで、奈川はかなりの荒れ模様だったそうで、野麦峠をゆく車道も開通したばかり。なんとこの峠道は今日の私たちが初踏だそうだ。
Tさんが先行して、ところどころに落ちている木の枝を取り除きながら歩いてくださる。…自分でやらなくて良いって、楽だな~。
途中手ごろな木の枝を見つけたグロッキーな私、それを杖にして登っていたら子供たちが「いいなぁ」。するとTさん、良さそうな枝を拾うと鉈をちょいちょいと動かし子供たちに杖を作ってくださった。
子供たち、また大喜びである。
峠の中ほどには清水が引いてあり、くり抜いた丸太に満々と美味しそうな水を湛えている。
この丸太もTさんたち案内人の会のみなさんが、ここまで背負って担ぎ上げて設置されたと聞く。手を合わせて感謝し、持ってきたお茶よりもおいしい水を持参のポリ容器に全員で汲む。
あー、美味しいなあ。さて、あと一息。
登る前にTさんが「一箇所、是非ゆっくり見てもらいたい所があります。それは着いてのお楽しみ」とおっしゃっていた。
天然林と人工林の境だ。
まさにちょうど、ここがその境界線。明るいカラマツ林の向こうから、ひんやりとした空気が流れてくる。
こんなにくっきりと分かれているところは初めて見た。
来た道を振り返ると、直立したカラマツの足もとにクマザサがおい茂る、材を採るために人間が作リ出した「人工林」が広がる。それは、カラマツとクマザサの単調な景色だ。
一方正面に広がる森には、老いたブナ、カエデと様々な広葉樹、そしてコメツガ、トウヒなどの針葉樹がお互いに枝を避けあいながら共存している。
まだ峠道にも雪が残るここでは、天然林の下には羊歯やカンスゲなどしか私には見つけられなかったが、きっと、明るい道の脇にはこれから様々な花が咲き出すのだろう。
Tさんがブナの木についてお話をしてくださる。
その類稀な保水力のこと、新緑の美しさ、コケが乗った年老いた幹の風合いの面白さ。
そこで私は、手をぐるぐる回して両方向を指差し、ウソのつけない性格の我がムスメに
「こっち(天然林)とこっち(人工林)どっちが好き?」と聞いたら
「こっち」と天然林を指差すではないか。
…え、そうなの??
実を言うとムスメは、学校の登山を除きまともな山歩きは今回が初めて。これまで近所の山へちょいと連れて行くと、車道を外れて山道を行こうとする私の袖を引いては
「おかーちゃん、そっちへ行ったら熊がでるよ、危ないよ、早く帰ろうよ」
と不安丸出しの顔で母を引き止めるのだった。
…山に対してはかなり、ノリが悪いムスメに不便していた私は内心、ニンマリ。
木漏れ日の爽やかな天然林の間を抜けてゆくと、Tさんが
「さあ、ここからちょっと危ないよ」と言って歩を止める。
見ると登山道の先には開けた急斜面があり、雪面が先まで続いている。ウッカリ足を滑らせたら、滑り落ちてクマザサの中に突っ込みそう…
Tさんが先に立ち、足を使って雪面に階段状の道をつけてくださる。本当に至れり尽くせり。最後尾で雪の階段を上がる私。
私の先を行く子供たちが、登りきったとたんに2人同時に大きな歓声を上げる。「うわー、すごい!」
雪をいただいた乗鞍岳が澄んだ青空を背景に、くっきりと、眼前に聳えている。
降ったばかりの雪で化粧した美しい乗鞍岳に見とれていると、Tさんが峠の頂上を通る道路の真ん中に立って子供たちを呼んでいる。
「さて、私はこっち、あなたたちはそっちに立ってごらん。」?という顔をしながらも素直に従う二人、よしよし(笑)。
Tさん「君たちは、長野県に立っている。私は岐阜県に立っている、はい、お互いに、手を取り合ってこんにちは」
最初は何のことかいった表情だった彼女たち、自分たちとTさんが「県境」をまたいで立っていることに気づくやいなや、たちまちに笑い出し、「へぇ~!」と抱き合ってはしゃぎ会う。
そんなことをしている私たちの横を、バイクや車が数台、通って行く。
車から降りて駐車場を歩く若いカップルのいでたちは、Tシャツにミニスカートにハイヒール。
私たちが一時間かけてのんびり登ってきた峠道を、この人たちは瞬く間に駆け抜けてきたのだろう。
駐車場の横の豪華な石のテーブルでお弁当を広げると、Tさんが汲んで来た清水を沸かしてコーヒーをご馳走してくださった。
同行の友人も、バーナーとカップを持参していた、さすが山屋さん。
あ~おいしい。
素晴らしい景色を、手にとれそうなほど近くに見える山を眺めながら人様に入れていただいたコーヒーをいただくのも最高だが、たとえ自分で作ったものでも外で食べるごはんは最高においしい。
贅沢な景色。深い青空。ここにこうしていられる自分たちは、幸せだ。
お金をかけなくても、少し車で走れば、そして少し歩けばこの山に出会える。
自分が住んでいる町には、誰もが何らかの思い入れがあるだろうが、私は一度「外」に出て、初めて自分の故郷を真正面から見ることが出来たように思う。
山国・長野県を取り巻く状況は厳しく、対策をしていても追いつかない虚しい現実がある。それでも、私はこの山国が好きだ。
そして今私の目に映るこの山は美しく、こうして目の前にただ、ある。
Tさんや友人と色々な話をしながら、のんびりのんびりお弁当を食べて、たっぷり休憩して、帰途につく。
下りの歩き方を改めてTさんから注意していただく。靴ひもの縛り方も再度教わり、杖を使いながら膝に気をつけて峠を下りる。
やはり下りは早い、あっという間に駐車場に到着だ。
帰りがけに少し寄り道。川を渡り、明るい高原を全員でのんびりと歩く。
開けた草地には、春には様々な花が咲くのだろう。
旅の最後には、旅館を経営しているSちゃんのところに寄って温泉をいただく。これまた貸切でのんびり手足を伸ばす。
まだ日が高く、目の前を流れる清流も見える。
あ~極楽、極楽。本日の野麦峠は峠道、高原、締めの温泉とすべて貸切の贅沢な旅だった。
十二分に満足して家へ帰り、お土産にいただいた柔らく美味しいフキノトウを天ぷらにした他はやっつけの晩御飯を食べながら
「今日、何が一番印象に残った?」とムスメに聞いたら
「天然林と人工林の境目の、天然林」と答えたので、驚く。
実は山歩きの後でTさんが立ち寄ってくださった高原のアスレチックで、子供たちは大はしゃぎしていたからだ。
どうして?とまた聞くと
「なんか、ありのまま、って言うか、昔からここにあったって感じがするから」。
見ようによっては、明るく、均整の取れたカラマツ人工林の方が「きれい」と映ることもあるかもしれない、と思っていた。今どきの子供たちであれば、なおさら…。
だから、彼女の答えは私には意外で、そしてとても嬉しかった。
秋葉街道の青崩峠に続き、数ヶ月のうちに二つの峠道を歩いた私。それぞれに印象は強いが、前回は爺が、今回は子供が主役だ。
今日の峠ハイキングが彼女たちにとって、楽しい経験になってくれたら、覚えていてくれたら良いなあと思った。
…そして母はやっぱり、普段からもっと体を動かさなくちゃね。筋肉痛には温泉のおかげでならなかったが…でもひたすら眠いんだよね、山歩いたあとの数日間…。
仕事を理由に体力の向上をおろそかにしていた自分のことも、改めて反省した野麦峠だった。
長野県には海が無い。
海が無いから、塩も生産できない…稀に「山塩」の取れる大鹿村の例もあるけれど、その生産量は海の比ではない。
だから縄文の昔から、塩は遠い海から信州へと運ばれてきた。
新潟県の糸魚川から松本、そして塩尻(塩の最終到達地点)へと運ばれた塩を『北塩』、一方静岡県の相良から県境の青崩峠、大鹿、諏訪を経て塩尻へ運ばれた塩は『南塩』と呼ばれた。そしてこの道を『塩の道』と言う。
諏訪地方は古くから猟・農具や漁具に使われた黒曜石の産地で、信州からは海へとこの黒曜石が運ばれた。諏訪に住む農家の友人から「子供の頃は畑を掘ると黒曜石の矢尻がいっぺぇ出たんだよな」な~んて言う話を聞くと、遠い縄文時代を身近に感じたものだった。
その信州産の黒曜石と『南塩』が縄文の昔から行きかった古道、遠州と信州を結ぶ青崩峠。
秋葉街道の中でも難所中の難所と言われ、現在も国道であるにもかかわらず崩落が激しく車道の建設ができずに、人しか歩けない峠道である。
この名前に惹かれていつか歩いてみたいと思ったのは、もう随分前のこと。
老父と遠山の話をするうち、実は父も「青崩峠は生きているうちに一度は行ってみたかった」ことがわかり、御年を考慮するともう次の機会はないだろうと、二人で峠を歩いてみることにしたのだ。
昨夜宿泊したのは八重河内川に沿って佇む、秋葉街道の老舗の旅籠『島畑』さん。早朝に起床して、そそくさと車に乗り込む。
朝が一番朝腰の調子が良い父のため、朝飯前の峠歩きである。
山崎さんに教えていただいた工事車両の転回場にMT2シーターの愛車を止め、いよいよ峠へ。
この侘びた峠の名前に対して抱いていた私の想像を覆すように、峠の登り口は偽木できれいに整備されている。
随分歩きやすい遊歩道ではないですか…と思いきや、
程なくして大小さまざまな落石が遊歩道に現れた。
中には板を破って大穴を空けているものも…思わず山肌を見上げる。
うわ、これなんてチト大きすぎるんじゃありませんか(怖)。もしかしたらこの石灰の山に緑化事業で植林したのかもしれない歩道沿いの木々は、山ではただでさえ曲がる根元が土砂に押され、完全に斜めに…いや、ほぼ真横になっているものもあった(大汗)。
峠道の途中の青崩神社の鳥居には根から倒れた木が架かったまま、共に苔むしている。
そして石段を登った斜面に建つ青崩神社も、
背後の木が神社に向かって根ごと倒れ、しかしその太い木の幹は真横に聳える松の木に支えられ、何とか落ち着いて??いる。
この松がここになかったら、倒伏した木は神社の屋根を直撃していただろう。どうか地震が来ませんように…とビクビクものである。
深々と頭を下げて参拝する父。私も真剣な心持ちで道中の無事を願って手を合わせた。
膝が悪く、無理をすると歩けなくなったり、血圧が高く薬を飲んでいるくせに、せっかちで「ボチボチ」とか「ノンビリ」と言う言葉が辞書に無い父は、足場の悪い道を私よりも早足で、杖を突きながらさっさと登ってゆく。
写真を撮りながら急ぎ足で父を追いかける私。
整備された道も途中から、落ちてきた石で板が割れたり、押し流されて無くなったりし始めた。
せっかく信州の真ん中からはるばるその最南端の地まで来て、しかも中央構造線の真上を歩いているのだし、断層の『露頭』なんぞを探してみたいなんて思っている私の心を知ってか知らずか、「早く行くぞ、オイなにしてるんだ」と相変わらずせっかちな父である。
途中、『あのあたりが露頭なのでは…』と砂防堰堤のほうへ回り込む殆ど朽ちた足場を辿ろうと浮気心を出してみるものの、また老父に呼び戻されあえなく露頭探しは断念することに…し、仕方ない…。
「青崩れ峠」と言う名のとおりに、青白く細かく崩れ落ちたばかりの石灰質の山肌に沿って歩くと、砂防堰堤で止めても止めても傾れ落ちる『動き続ける山』の中に私は立っているのだ、という実感が湧いてきて、なにやらそら恐ろしくなってくる。
まるでセメントのような青灰色の山のザラ石に、思わず崩壊してゆくコンクリート堰堤をイメージしてしまう(そして、そのイメージが嫌いではない)私。
遠くに見える反対側の山肌から、鹿の鳴き声が何度も何度も聞こえてくる。
人気もない山の中で、その声は深い谷に大きくこだまして、まるで迷子になって足場を失い悲しげに親を呼ぶ子供のそれのようだ。
足を止めることなく歩く父の気持ちもわからないでもない…そうだ、あまり離れずさっさと歩かなければ。
車を置いた治山工事の工事車両の転回場から峠の頂上までは30分ほどと聞いていたので、もう少しで峠だろう。
…が、ここでやはりせっかちな父が
「いかん、血圧が上った。俺はここで待ってるぞ」ってホラ言わんこっちゃ無い(何も言ってないけど)、ゆっくり登ってくれば良いものを。
こんな携帯も通じない山奥で爺さんを担いで下りたりなんかしたら私もくたばってしまう。仕方ないね、残念だけど、じゃ私だけ失礼、と休みどころに父を残して峠の頂上へ向かい早足に登る。
空が近くなり、まっすぐな階段を上りきると峠の頂上にひょっこりと出た。
峠の国境は、崩れ落ちそうな道を登ってきた私が拍子抜けするほどさっぱりと整備され、南向きの立派な丸太のテラスまで作られている。
テラスの上から静岡県の山々を見渡す。Hello, Sizuoka!
う~ん…感無量。
あの山々の向こうには、海が広がっているんだな。数千年前の人間が、この同じ道を踏んであの山の向こうから塩を運んできた…その時歩いた人が見た景色は、木々は、今とどう違っていたのだろう。
明治時代の製紙用材のための伐採、そして戦中戦後の軍用目的による森林伐採が始まるまで、遠山地方からこの静岡・水窪にかけて古く豊かな森林が広がっていた。
天を衝くばかりの様々な樹種の巨木たちが生い茂っていたに違いない。
その頃の景色を、この深い山々を見ていながらも私は想像することができない。
・・・おっとそうだ、父を待たせているんだった。
あまり感慨に浸っているわけに行かない、と急ぎ写真を撮って戻ろうとするが、この立派なテラスからは長野県側の山が見渡せないではないか。
そこで熊伏山への登山道入り口を少し登り、クマザサにつかまりながら狭い道の脇に逸れて足場の悪い崖っぷちに立つ。
おお、見える見える。深く切れ込んだ谷と、折重なる山々。
遠い遠い昔、ここは海だった。
地球を生きものと捉えるなら、父や私が生きてきた長い時間ですら、地球のまばたきほどの時間ですらないのだろう。
地球は呼吸をしていて、体の中を燃え滾らせ、その皮は動き続け、圧縮され押し上げられひび割れ、その跡を私たちは目にして驚いたり感心したり写真に撮ったりしている。
そしてこの瞬間も地球は生きていて、この地面の下の下には血のような真っ赤な流れが渦を巻いているのだ。
…そう考えてしまったら、こんな狭い足場に立ちひょろひょろの木にしがみついている自分が愚か者に思えてきて、足が震えた。
後ろを振り返りながらそっと後ずさりして登山道に降りる。朝日に照らされながら坂道を登ってかいた汗に代わって出てきた冷や汗をぬぐいながら、テラスへ戻った。
ホッとすると同時に空腹を覚えて時計を見ると、時間はちょうど8時になるところ。
遅めにとお願いした朝ごはんの時間に間に合いそうだ。
峠から見た遠山谷は視界を覆いつくす山、また山だった。
それは私には、人間が支配しきれない場所にも見えた。
地球の皮を覆う山、そして川…地球がちょっとくしゃみをしただけで、それはひび割れ、そして溢れる。
そんな地球のリズムに同調して生死を繰り返す、木々と森の生きものたち。
きっと私たち人間は、地球の皮を永遠に繕い続けるのだろう。
中央構造線上に聳えるこの山々は、今も動き続けている。