
伊那谷。それは山深く、現代まで昔ながらの神楽の伝承が残る希少な場所。
信州の秘境、北信州の秋山郷、そして南信州の遠山郷。
秋山郷は二度訪ねたことがあるが、遠山谷は初体験の私。
南北に長い長野県、南の景色は松本の私から見ると異国である。
伊那谷のおとなり、木曽谷を車で走っていても、林道を歩いていても南木曽ともなると中信とは植生も風景もまるで違ってくる。庭先の垣根がふと見るとお茶の木だったり、ゆずの実がたわわに生っていたり、山には冬でもどことなく青々としているように見えるソヨゴやモチやツバキなどの常緑樹がたくさん茂っていたりする。
右を向いても左を向いても山だらけ、降雨量が多く山はいつも水を含み、山のそここには沢が流れ、美しい小渓流や滝を作っている。入る人間の数も分散されて少なくなるためか(笑)、松本周辺ではわざわざ探して歩くような野草も、道沿いに群落を作っていたりする。
そんな木曽も大好きなのだがそれとはまた別に、伊那谷には以前から一種のあこがれがあった。

漠然と抱いていた、山深い里のイメージ。どこかにまだ世間と隔絶された場所があり、密やかな山神の営みが今でも続いている…そんなものに対する興味と憧憬があった。
そんな私に突然、交通費無料送・自宅迎付きの遠山郷日帰りプランが降ってきた。
ひょんなことから遠山郷に関するマラニック・イベントの広報の裏方担当となった私、本日行うイベントのためのポスターとパンフレットの写真撮影に参加することとなったのだ。
まだ暗いうちに松本を出た神奈川の友人の車は、夜が明けたばかりの遠山郷へ向かう山道をどんどんと登っていく。私の今回の役割は撮影と取材?である。
遠山は良く晴れて、青空を背景に十重二十重に重なる深い山と、その背後に美しく白く輝く南アルプスが私たちを出迎える。

眼下には遠く、けれども石を投げれば私でも届きそうなほど真下に遠山川が光っている。

そして目線の真横の山の斜面には、朝日に照らされた下栗の集落が浮き立って見える。

私がいま立っているここはいったいどこなんだろう。
距離感も空間も時間ですら日常から遊離して、奇妙な、でも心地よい、浮遊するような感覚にしばしの間、とらわれる。

遠山川沿いに林道を行く。
途中合流した遠山郷の住人で、釣りガイドでもある本日の案内人の松下さんに
「これだけ(人家が)離れていてもやっぱり回覧板は持っていくの?」
と聞いて笑いを取る私。当然持っていくに決まっている、たとえ隣りの家まで数キロあろうとも。…歩いていくのかな。車かな。いや、遠山の人ならもしかしたら、歩いていくのかも。


再び再び走り出した車内でそんなことを考えていると、まわりはすでに釣りの話題に。イベントの発案と規格者は、皆釣り人なのである。
喋りながらも釣り人たちの顔は川を向いている。私はひたすら車のウインドウにオデコをくっつけて、反対側の山の斜面に目を凝らす。

…あっ!こんな山深くに犬がいる!「猟犬かな?」「そうじゃない?」

「…神様かな?」「そうかもね…。」てな感じの会話をしつつ、車は林道を奥へと進む。
紅葉の色はまだ残っていたが、すでに晩秋の景色の斜面。…さすがに目に付く緑は羊歯が殆どかな…。
車の終点、加ヶ良(かがら)の景色は真っ白な石灰岩が深い緑の川の色に映えて何とも幻想的だ。

重なる色づいた山の向こうに遠く南アルプスが霞んで見える。
急峻な白い山肌にしがみつく松、周囲の広葉樹のコントラストが美しい。


こんなに深い山のなかに、こんなに広い川幅で流れる遠山川。

松下さんが「見てごらん、あそこに少し砂利を掘ったような跡があるでしょ。アマゴの産卵床なんだよ」と浅瀬を指す。
遠山川沿いに戻り、車から離れて昔の森林鉄道跡を歩く。

遠く忘れ去られた過去が、時間を積み重ねてまだそこにはあった。
河原の石はどれも皆おもしろくて、カメラを向け出すとキリがない。
仏島と呼ばれる谷の岩盤の狭窄部分の石は激しい流れで洗われて、面白い肌合いを見せている。

目を引く赤いチャート石が、数十トンクラスのものから小石、砂利サイズまであちらこちらにゴロゴロしている。

いろんなものにカメラを向けているので、時間は限られているのにちっとも前へ進まない。
以前から友人たちに「私の移動時間はね、㎡単位なんだよmじゃなくって」
といかに自分の山歩き速度がゆっくりなのかを解説しておいたが、実際に私の歩く姿を見た同行人に
「平米単位じゃなくって、柳ちゃんは立米単位なんじゃない」と言われてしまう私…。
途中用事があって別れた松下さんたちに代わり、私の案内のため後から合流してくれた飯田の友人も、カメラを構えたままなかなか前に進まない私に
「まだ~?」
と呆れ顔である。
だってしょうがないじゃん。次があるとしたら交通費も自前でしょ?次はないかもしれないから撮るだけ撮らないと、ね。
…と言いながらも、
『次は自力で来よう…好き勝手にまわれるし。でもこの落石だらけの山道だけは一人はキケンかも…だいたい入ってきたら帰れないかも携帯通じないしう~ん』

と、落石でボコボコにへこんだガードレールを思い返して頭の中で勝手に逡巡する私なのだった。
不思議な場所、遠山谷。
山深いが、そこここに人の息づかいがはっきりと聞こえる。

次はいつ、ここに戻って来られるかな。
きっと誰もがそんなふうに思ってしまうんだろう、ここはそんなところだ。